50年前の市民協働? | 高木仁 | 今日どう?通信

50年前の市民協働?

今から50年前の昭和46年、3年間勤めた貿易会社を退職して長岡に戻ってきました。当時社長からは「来年ニューヨーク駐在として派遣するから頑張ってくれ」と言われていたのですが両親・兄弟から説得され駐在員を後輩に譲り地元に戻りました。運命自招ですね。
(運命は自らまねき、境遇は自ら造る)

戻ってきた頃、実家に用件があり近くを歩いていたら目の前でばったり知り合いに出会いました。現在、新潟県テニス協会の役員をしているIさんと奥様になった近所の女性でした。Iさんとは高校の同期と言うことも有り知っていたし、その女性は同じ町内で毎朝登校するときに実家の前を通っていたので顔見知りでした。「どうして二人一緒にいるの?」って聞いたらテニスが縁で結婚することになったと話していたのが記憶に残っています。

彼から「高木も硬式テニスをやらないか?毎朝長岡高校のテニスコートで社会人のクラブが練習しているので一度見に来いよ」と誘われました。自分は中学・高校とバレーボールをやっていたのでテニスには余り興味がなかったのですが、折角誘われたので一度行ってみようと思い、確か一週間後くらいにコートへ行ったと思います。

あのラケットの芯に当たったときの感触がとても気持ちよく、それから夢中になり早朝練習に通いました。当時聞いた話でダウンヒルスキークラブという社会人のスキー同好会があり夏場の練習にテニスが良いと言うことで始めたようです。当時は長岡高校のテニスコートの排水が良くなく、側溝に硬式テニスのボールが落ちて水につかるとまるで「まりも」みたいになるねということで「マリモテニスクラブ」という名前を付けたのだと聞きました。それから毎朝の練習に通うのが楽しくて夢中になって朝の練習に行きました。

スキークラブの幹事をしていたHさんから「自分がスキークラブの面倒を見るので高木さんはテニスクラブの面倒を見てくれないか」と言われ引き受けることにしました。

当時事務局としていたスポーツ店の社長は、大勢の仲間を集めて遊ぶのが大好きで沢山集めてテニスをやろうと夏場の合宿を計画しました。毎年夏の合宿が楽しみで多くの人たちに楽しんでもらいました。

一番参加者が多かったときはバスを2台連ねて妙高のホテルに行ったことです。
私が乗ったバスでは大変盛り上がりバスガイドさんが「こんなに楽しい団体さんは今まで初めてです、来年私も参加させてください」と言ったことを思い出します。70名を超える参加者でした。

テニスクラブの中でもカップルが次々と誕生し一時は婚活の場になっていました。(笑)
今まで7組くらいのカップルが誕生したでしょうか。

その後、市内高校のテニスコートが学校開放と言うことで増えていきました。
人数が増えてくると大会開催場所が難しくなり長岡市役所にテニスコートの建設を陳情に行きました。何年か掛かって河川敷にテニスコートが出来ましたが、大水で冠水すると使い物にならずなんとか地上にコートを造って欲しいと当時の会長と何度も市役所にお願いに行きました。その結果、出来たのが希望ヶ丘テニス場です。長岡のテニスファンにとって待ち望んでいた全天候型のコート16面でした。

コート面数が多いので大会運営を任された私は試合のやりくりにトランシーバーなどを使い進行に大変苦労しました。
少しだけでも力になれたことは嬉しい限りです。

私にとって、テニスを通しての仲間作りや仕事の関係は今でも続いております。
現在クラブの会長を仰せつかっており、若い頃にこのクラブと出会って続けてこられたことは人生の大きな部分を占めております。50年も続いている現在でも40余名の社会人が集まり活動しております。これも市民協働の一つではないかと思い返しています。

文・高木 仁(NPO法人市民協働ネットワーク長岡 理事)


「今日どう?通信」はNPO法人市民協働ネットワーク長岡の事務局・理事その他関係者が、市民協働をテーマに日ごろ感じたこと、気づいたことをしたためるリレーエッセイ・コラムです。
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