どうして音楽はあるの?| 西脇美智子 | 今日どう?通信

今年のシルバーウィークは3連休が2回ありましたが「何をして過ごそう!」など余り騒がれなくなりましたね。旅行の行動制限もなくイベントの制限もないのに、誰もが心に重たいものを抱えていて…、一人の力ではどうにも立ち行かず、新型コロナウィルスの影響の大きさにいまさらながら大きなため息をつくこの頃です。

その原因に一つは、40年近く何れかの合唱団で大勢の仲間と歌ってきましたが、所属していた最後の混声合唱団が8月31日正式解散となりました。

市民活動フェスタにも参加し、長岡花火の「故郷はひとつ」の音楽収録参加、オリジナルで混声合唱組曲「越後酒造り唄」やふるさと賛歌「越路」などなど、企業の協力や市民活動の助成金を頂き活動してきました。長岡少年少女合唱団の「お米は神様」も私たちの提案で誕生したものです。再起を願いながらも3年に及ぶ歳月が遠ざかる全盛の活動を懐かしむことから抜け出せないでいます。

どうして音楽があるのか?そんな素朴な疑問に明快に答えてくれる著書があります。題して「世界一素朴な質問、宇宙一美しい答え」36頁にミュージシャンのジャーヴィス・コッカ―がこんな風に答えています。
前略

この世から音楽がすっかりなくなったって、誰も死にはしない。空気と水とは違う―音楽なしでも生きていける―でも、音楽が消えちゃったらどんなにつまらないか、考えてみよ。

中略 

椅子取りゲームはそもそも始めることさえできないだろう。
さてまじめに考えて見ることにしよう。世界に人がいて音楽がない場所なんかどこにもないところをみると、きっと意味があるはずだ。本当のところ、人間は言葉を話せるようになるずっと前から歌ったり演奏したりしていたと考えている学者もいる。たぶん音楽は、人間同士が気持ちを伝え合う、いちばん最初のかたちだったんだろう。今でもまだ、音楽があれば言葉なんかなくても気持ちが伝わる。「楽しい」曲と「悲しい」曲を思い浮かべてほしい。どっちも同じドレミファソラシドを使っているのに(半音を入れても12音)感じは全く違う。「ああ、それは歌詞のせいだよ」っていうかもしれない。でもそうじゃない。嘘だと思ったら、言葉の意味が全く分からない国のラジオを聴いてみて。それでも、楽しい曲と悲しい曲を区別できるはずだから。音の「ひびき」でわかる。どうやって?それは知らないけど、とにかくわかる。魔法のようなもので、音楽があるのはそのせいだと思う。

音楽は魔法で、好きなときにいつでも、歌ったり演奏したり聴いたりできる。好きな曲を聴いて、耳の後ろあたりから首のほうまでしびれるように感じたら(鳥肌が立つことだってある)、最高だ。ぼくは映画も本も芝居も絵も好きだけど、音楽みたいな魔法の感じはほかにはない。魔法を使えるのは音楽だけ。
音楽がある理由は、それに違いない。

長岡市立劇場で、ヴェルディやモーツァルト、フォーレそして三枝成彰のレクイエムを歌いました。メサイヤも2回は歌った。第九は何回歌っただろう。もう一回カールジェンキンスの「平和への道程」を歌いたい。ふるさと賛歌「越路」も眠らせたままではもったいない。そんなことを考えていると折々の感動が蘇ってきます。魔法に再びかかった心地も悪くありませんね。

良く晴れた連休最後の25日、十日町の古民家で開催された野の花展に足を延ばしました。車の中で聴いた男声合唱が耳から離れません。それは八木重吉作詞の男声合唱組曲「雨」のⅥ曲目の雨、歌詞は以下の通りです。ぜひYouTubeで聴いてみてください。

雨の音がきこえる 雨が降っていたのだ
あのおとのようにそっと 世のためにはたらいていよう
雨があがるように しずかに死んでいこう

文 市民協働ネットワーク長岡 副代表理事 西脇美智子

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「今日どう?通信」はNPO法人市民協働ネットワーク長岡の事務局・理事その他関係者が、市民協働をテーマに日ごろ感じたこと、気づいたことをしたためるリレーエッセイ・コラムです。
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