私の「協働」の芽生えを思い出と共に運んできた友人

 突然、音沙汰のなかったフィリピン人の友人(協力隊時代の現地語の先生)からSNSで連絡が来た。「明日、会える?」と。「明日~~~~~~??? 今どこにいるの? 何しに来ているの? いつまでいるの? 誰と来たの? どうやって来るの?」などなど聞きたい事が山盛り過ぎたが、「とりあえず、午後1時から1時間だけなら」と返信した。その後「どこに行けばいいの?」とメールが…。私がどこにいるのかわからずに連絡してきたの??? 脱力(汗)

 どうやらフィリピン人の友達と東京経由で夜行バスに乗って新潟市在住の協力隊OV(=Old Volunteer:帰国隊員)のところにいるらしい。翌日、彼女は当時と変わらぬ明るい笑顔で「ナッキー(佐竹の愛称)、クムスタ?」と駆け寄りハグをしてきた。当時よく交わしていたフィリピンジョークで返すと「相変わらずね!」とお互いに離れていた時間を忘れて笑い合った。

 人の記憶というのは結構いい加減で、自分に都合よくも悪くも、忘れたり覚えていたり改ざんされたりする。しかし、これはノンフィクションである。

 当時のことを思い返して話しているうちに、彼女は私の住んでいた家が隊員の中でトップクラス(本当はワーストなのだが、彼女のセンスでこう表現した)だったことを思い出した。もちろん来たことはない。語学の先生たちは、ときどき隊員の任地を訪ねて交流を深めていたが、私のところに来る人は、広報か視察か長岡からの応援団くらいしかいなかった。

画像はイメージです

 フィリピンの友人(以下F)「噂では、凄いところに住んでいる、って聞いていたけど、どんな家だったの?」と聞かれたので、フィリピンの童謡「バーハイ クボ(小さな家)」を歌った。それは、フィリピン人ならだれでも想像できるヤシの葉っぱの屋根に、竹で編んだ高床式の小さな家(小屋レベル)である。

F 「わお~!ほんとに? 誰と住んでいたの?」

佐竹(以下S) 「少数山岳民族アエタ族のカウンターパートとよ」

F 「へ~、何を食べていたの?」

S 「山でとれる赤いお米や配給米。おかずはミニトマトや葉もの野菜、虫とか、時々魚。私の誕生日には犬をさばいてくれたり」

F 「ほんとに?!! あなたはフィリピン人以上にフィリピンのディープな生活を経験したのね。私は無理だわ。当時は携帯もなかったけど、どうやって連絡していたの?」

S 「毎日夕方の6時になると無線で各地の隊員と安否確認をするの。でも、私のところは電気が通ってなかったから、ジェネレーターで発電させて通信していたの」

F 「電気が通っていなくてご飯はどうやって作っていたの?」

S 「毎日キャンプみたいに薪で火を起こして」

F 「水は?」

S 「井戸は枯れちゃって使えないところが多かったから、町から買ってきたり、川の水をろ過して煮沸して使ったり」

F 「洗濯は?」

S 「川で」

F 「昔話みたい。お腹壊さなかった?」

S 「何度も壊したよ」

F 「まさかトイレも川とか?」

S 「最初はね。でもさすがにそれは辛くて、トイレだけは作ったよ。市長さんに挨拶に行ったとき、『何か困ったことがあったら言ってね』と言われたから、『便器ください。トイレを作ります』ってもらってきた。穴を掘って。トイレの増設(笑)」

F 「それは、伝説の隊員になるわね。未だに記録は破られてないと思う。今後もね。(笑)」

 ひとしきり昔話で盛り上がったのち、彼女はこう言った。「ねぇ、私、ここで働けないかしら?」大爆笑した! そうそう、フィリピン人のとりあえず言ってみる『ダメ元精神』を思い出したのだ。当時純粋にその言葉を受け取って何とかしてやれないものかと真剣に考えていた。聞けば、今、彼女はオンラインで英語の授業を仕事にしているそうだ。ネット環境は日本よりも格段に整備されたフィリピンは、コロナ前から小さな島であってもネットがつながった。おそらく電話工事をするより安くて速かったのだろう。生徒は日本人や韓国人など。場所や時間など、生徒と調整をすれば自由度は高い。そんな彼女の来日は2回目だ。

画像はイメージです

 1回目の時も突然「今、東京にいるの!NちゃんとOさんとKちゃんと会ったよ! ナッキーもおいでよ!」と、軽く連絡があった。その時私は確か、「急には行けないから、長岡に来てよ!」と冗談交じりに言った気がする。その通り彼女は長岡に来た。「日本は移動費が高いから高速バスでしか移動ができない」と言い、東京→新潟→大阪を夜行バスで移動していた。新幹線に比べれば時間はかかるが、かなり節約できる。聞けば日本に来るエアチケット代は、往復で7,000ペソ(約19,000円)だったというではないか! 私もお得なチケットを探して旅をするのが好きだが、さすがにその金額で円安の今、日本で購入することは無理だ。海外旅行もこの円安続きでは、ちょっと前の様に気軽にはできなくなった。しかし、言葉や文化、習慣など価値観の違う国から日本を見ることは、自分を見つめ直すことにもなる。

 そうだ! 私は20代の頃、フィリピンでディープな現地生活を経験したことで「協働の根っこ」が芽生えたのではないか? フィリピンでは、家族や親せき、血縁関係がなくても同郷の人や友人を大切にして助け合う。私の直属の上司は女性だったが、パートナーが彼女の運転手をしていた。彼は「僕の大切な妻がいい仕事をするためにサポートできるのが嬉しい」と言って、家事育児を担っていた。これは、フィリピンでは特別な家族の姿ではない。

 また、社会の構造も緩やかな協働になっていると気づいた。フィリピンは自国に就労の場が少なく、出稼ぎ労働者が多い。しかし、仕事がない人がみんな出稼ぎできるわけではない。そこで、仕事を自分で作る人たち(例えば、頼んでいないのに掃除をしたり、お使いに行ったり、御用聞きしたり、子守りをしたり)がいて、そういう人たちにお願いしてお小遣いをあげる。するとそれが常習化して仕事になる。という背景を知ると、日本の様に「使ったものは元の所へ」「来たときよりも美しく」「自分のことは自分で、人には頼らない」とすると、誰かの仕事を奪うことになってしまう。最初は日本の価値観で「一人一人がゴミを捨てないとか、大人になっても10時と3時のおやつを食べる習慣をやめて仕事すれば効率よく終わるのに」などと批判的に見ていた。しかし3年間現地の人と一緒に仕事をし、生活したことで、社会全体を大きく変えることではないけれど、自分の手の届く範囲で、目の前の人と協働する生活の楽しさと豊かさを知ることができた。

 そういえば、赴任前は勘違いな「自立した大人」や「人に頼らず迷惑をかけない大人」を目指していたが、そもそも人間は一人で生きていくことは無理だ。特にフィリピンの様にインフラが整備途中で予定不調和だらけのところでは“協働”しない限り生きていけない。少子高齢化で社会保障なども危うい今、高度経済成長でインフラ整備が一気に進んだ裏で薄れてきた日本の“協働”の力で、普段の暮らしの幸せを取り戻せるのではないか、と希望を持ちたい。

と、突然やってきた旧友は、私の協働の芽生えのときを思い出させてくれた。

文・NPO法人市民協働ネットワーク長岡 理事 佐竹 直子


「今日どう?通信」はNPO法人市民協働ネットワーク長岡の事務局・理事その他関係者が、市民協働をテーマに日ごろ感じたこと、気づいたことをしたためるリレーエッセイ・コラムです。

感想など、お気軽にコメントなどでお寄せ下さい。

🌟各媒体はこちらから
X https://x.com/nagaokakyodonpo
note https://note.com/nagaokakyodo
LINE https://lin.ee/RMTT0ef
Instagram https://www.instagram.com/nagaokakyodocenter
YouTube https://www.youtube.com/@nagaokakyodo


今日どう?通信は、NPO法人市民協働ネットワーク長岡の理事・事務局が、身近にある市民協働をテーマに日ごろ感じたことや気づいたことなどをしたためるコラムです。子育て・地域づくり・社会福祉など多ジャンルでありながらも、日常生活の中にあるちょっとした協働のエッセンスをリレー形式でつなぎ、隔週に1回メールマガジンやSNSで配信しています!