「今日どう?通信」をお読みの皆さん、年が明けましたね。
自分の原稿が投稿される日を確認してみたら、何と1月1日でした笑
記念すべき1年の始まりの「今日どう?通信」が、私の原稿でいいのでしょうか?
…考えても仕方ないから、まいっか ←
言いたくても言えない人が今年は世界中にたくさんいそうだから、「おめでとう」の代わりに昨年1年間を生き抜いた皆様に「お疲れ様」を、今年の皆さんからの協働ネットへのご愛顧に期待を込めて「よろしく」を送ります。
近頃「多様性」という言葉をよく聞くようになったなぁと思います。
私の主観でしかありませんが、日本では主に海外の方やLGBTQ+の方に対して使われていて、あたかもその他大勢の日本人は多様性を「受け入れる」立場として語られているような気がしてならないのです。
もちろん海外の方やLGBTQ+の方たちは、日本の法制度や慣習上生きづらさがあるので、理解して生きづらさを取り除いていく必要はあると思います。
でも、私も含む“その他大勢”の日本人の多様性はどこにいってしまったのだろうとモヤモヤするのは私だけ?
多様性って、肌の色とか出身国とか性別とか性的指向とか、そういうわかりやすい違いだけを言うのでしょうか。
ちょっと私が大学生だった頃の話をさせてください。
私が通っていた大学のキャンパスには色んな国の先生や留学生がいて、もはや誰の何がどう違うのかわからないほどバラエティ豊かな環境で勉強してました。
中にはLGBTQ+の方もいたのですが、(私が知ってる限りでは)差別やいじめはなく、きっとそれだけみんなが違うと「たくさんある違いの中のひとつ」と捉えられていて、そこだけクローズアップされることがなかったんじゃないかと思います。
みんなが白い帽子を被ってる中で1人だけ赤い帽子を被ってると目立つけど、みんなが違う色の帽子を被ってたらその赤い帽子は目立たないということではないでしょうか。
理想論だし、卵が先か鶏が先かという話になってしまいますが、その場に集まった人が多様であればあるほど、その違いは目立たなくなる。
“多様な”方への理解を深めることはもちろん大切だけれど、今日から私たちにできることのひとつは、自分もちゃんと勇気をもって違う色の帽子をかぶること、他の人がそうしたいと思ったときに応援することではないかと思うのです。
「多様性」は、目に見える違いや、制度や慣習上対応が必要な違いだけを指すものではなく、私たち一人ひとりにある小さな違いも含むもの。
そう考えると、その違いを「受け入れる」だけの立場の人なんてこの世に一人もいないのではないでしょうか。
さぁ、新しい年がやってきました。
皆さんも含むたくさんの人たちの“ご多様”をお祈り申し上げます。
文 市民協働ネットワーク長岡 事務局 須貝友紀
◆―――――――――― ◆
「今日どう?通信」はNPO法人市民協働ネットワーク長岡の事務局・理事その他関係者が、市民協働をテーマに日ごろ感じたこと、気づいたことをしたためるリレーエッセイ・コラムです。感想など、お気軽にコメントなどでお寄せ下さい。